西国第十一番 【世界遺産】上醍醐准胝堂(醍醐寺)其の一
ものすごく、ものすごく、大きな歴史ある、偉大なお寺です。
正直ここまでとは思っておりませんでした。
(世界遺産とも知りませんでした。黙)
この醍醐寺は平安時代からある歴史深いお寺です。
平安時代なんて遥か昔です。戦国どころの騒ぎじゃありません。
今年は徳川家康公没後400年とか言われてますけど、
じーちゃん80歳として5人分か~なんて思うと身近に感じます。(私は。)
でも平安時代ってもう800年くらいの世界ですよね。
16人分くらいです。遠。
聖宝理源大師というお方が貞観16年(874年)に准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まるそうです。
もう意味が分かりませんが始まりはそのようです。
私がおもしろいな~と思う部分だけをこれから掻い摘んで話すんですけど、
この醍醐寺の境内は、大きく3つに分けられます。
総門から入り、まずは三宝院。そして下醍醐、それから上醍醐です。
ちなみに下醍醐と上醍醐は徒歩で約1時間の距離があります。
ひえー。1時間!
同じ境内がですよ!
というのも醍醐寺は約200万坪の敷地をもっており…
さぁ東京ドーム何個分でしょうか。
(ちなみに東京ドームは14168坪です。まぁ1万5千坪ということにして…約133個!え?嘘だよね?!)
歩けますかねぇ~…(。-∀-)
建立はまず上醍醐から始まりました。
いや、正直下からかと思っていたのですが。
じつは三宝院が最後です。永久3年(1115年)でした。
ひときわ美しい五重塔が建てられたのは平安時代、天歴5年(951年)です。
ちなみに国宝ですぞ。
醍醐天皇のご冥福を祈るために、朱雀天皇が起工し、
村上天皇の時代に完成しました。
この村上天皇は琴や琵琶等の楽器に精通し、
平安文化を開花させた天皇と言われています。
ちなみにこの後は冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇と続きます。
そして…あ、もういいですか?
醍醐寺は今まで無傷という訳ではありませんでした。
というかかなりズタボロにされております。
室町時代の室町元年(1467年)に起きた応仁の乱。
これは約10年に渡り継続した内乱です。
8代将軍である足利義政の後継ぎ争いなど、様々な要因によって発生し、
幕府管領:細川勝元
VS
幕府侍所所司:山名宗全
という構図で始まり、戦国時代に突入するきっかけとなった内乱だと言われています。
この内乱により、主要な戦場であった京都は壊滅的な被害を被りました。
その結果、五重塔を残し、大半が焼失し、
ついには衰退していってしまったのです。
ん?
でも今あるじゃん。
とこの疑問が浮かぶのですが、
復興させたのは戦国時代のあの人の力です。
あの人。
みんなも知ってるあの人。
猿と呼ばれた、あの草履を温めた人です。
豊臣秀吉公。
秀吉さんは三宝院裏の山麗で、
慶長3年(1598年)に「醍醐の花見」を行いました。
これは秀吉一世一代の催し物として知られる程、とても大きな宴で、
招待客は女しか呼ばなかったなんて言われてるアレです。
ほんと女好きだな、この人。笑
唯一男で呼ばれたのは秀頼と前田利家(夫妻)です。
醍醐寺までの整備とかには男手使いまくっておいて、招待はしないんですって。笑
この醍醐の花見をきっかけに復興し、現在に至ります。
秀吉さんは残念ながらこのお花見の5か月後に虹の川を渡っております。
下醍醐の中心、金堂(これも国宝)は、秀吉さんの命により、
紀州(今の和歌山県ですネ)の湯浅にあった寺院のお堂を解体し、移築されました。
1600年のお話しです。
1600年と言えば・・・慶長5年。関ヶ原の戦いがありましたね~!
さて、十一番礼所、准胝堂ですが、現在は准胝堂「跡」となっております。
というのもこの准胝堂もかなり茨の道を過ごしていまして、
創建は貞観18年(876年)と伝えられていますが幾度となく焼失してます。
昭和43年(1968年)に再建されたんですが…
なんと!2008年8月24日の落雷による火災でまたも焼失!
焼失しかしてません!
2008年なんて最近すぎます!平成の時代です!
現在はまた頑張って復興中です。
どうか皆さまこの准胝堂を応援してください。
さぁ!予備知識はこれくらいにしときましょう。
京都礼所を3つか4つくらい回ろうかと思ってましたが
どうやら醍醐寺に一日潰れそうですなっ!
東京ドーム133個分も歩けますかねぇ…(´・ω・`)